<インタビュー> 社員が語る
アズワーク製作所(旧・昭和運搬機)の創設社員である大江・松井は、故・吉田会長と50年ものつきあいで苦楽を共にしてきた。ふたりとも会長に仕事を教わり、会長を「親父であり兄のような存在だった」という。吉田会長の若い頃の印象やプライベートの素顔、人生訓…そんな会長の仕事場では見せることのなかった人間像をふたりに語ってもらった。そのありし日の人情味あふれる思い出を、追悼談として数回にわたって紹介する。
吉田隆三会長との思い出(1)
若き日の吉田会長
大江・松井と会長との出会いは、会長がまだ独立する以前の吉田鉄工所で部長として在籍していた頃にさかのぼる。ふたりとも会長が面接して吉田鉄工所に入社が決まった。その後、会長がアズワーク製作所(旧・昭和運搬機)を立ち上げるに至り、その創立メンバーとしてふたりは参加した。昭和38年のことである。
当時の会長の印象を聞くと、無口で本を読むのが好きな人だったようだ。仕事熱心で現場が好きで、従業員にまじって徹夜で仕事をすることもよくあった。また、遊ぶことにも人一倍熱心で、よく飲みにも出かけたという。
そのお供をさせられたのが松井であった。松井が仕事をしているとよく「ちょっと来い」と声をかけられた。「え どこへ行くんです?」と答えると「まあ、いいから来い」といって北新地に連れ出されたそうだ。
会長のお酒の飲み方は、ひとつの店でじっくり飲むというよりは、店をはしごするのが楽しみだったようだ。大江はあまりお酒が飲めなかったが、それでも誘われて出かけたときの印象は「座ったとたん、『おい、次いくで』やったからなあ」と振り返っている。
仕事中は無口であったが、人の面倒をよくみる兄貴肌の性格であることは周囲も認めるところである。会社を創立して初めての慰安旅行を企画したときのこと。こんなエピソードがある。
松井はまだ入社したてで、まだ17か18歳のときだった。慰安旅行など面倒だから行きたくないと寮で寝ていた。ところが、会長が寮にまで押しかけてきた。
「何をしてるんや。はやく支度せんかい」
会長はそういって有無をいわせず、松井を車に乗せて引っ張っていった。おかげで、松井はスリッパ履きの慰安旅行となってしまった。
無茶が作業着を着ていたようなもの
「仕事は熱心だったが、遊ぶことにも熱心で無茶もようしてた人やったなあ」
ふたりが口をそろえていう。ある朝、大江と松井が仕事をしていると、事務所から会長が警官に連れられて出てきた。見ると両手に手錠がかけられている。「えっ? なんや」と事務の人に事情を聞いてみると、交通違反を重ねた会長が、罰金を払わずそのままにしていたところ、警察が強制執行に来たのだという。午後には釈放(?)され、何もなかったようにふだん通り仕事をしていたそうだ。
昼休みに時間が空くと、会長は近所の立ち飲み屋へもよく行った。そんなとき、誘われるのはいつも松井であった。ふたりで飲んでいると
「おい、まっちゃん、生があるで。ジョッキにしよか」
「おい、まっちゃん、まだ1時間ほど大丈夫やなあ。ほなもう一杯いこか」
そんな按配であった。
「ふたりともあまり顔に出んかったからね。けど、酒のにおいはごまかせへん。だから昼からの仕事ではあまりしゃべらんように、他の人のそばには近寄らんようにしながら作業してましたね」
しかし、この酒の席で、松井は会長からいろんなことを教わった。仕事のこと、生き方のこと、仲間とのこと…。
あるとき、松井は会長からこんなことをいわれた。どういう状況でそんな話になったかは覚えていないが、その内容だけは心に深く残っている。
「あのな、自分の親に何かあったときは自分の都合で考えたらええ。すぐに飛んで行けるなら飛んで行けばいいし、どうしても無理やったら仕方がない。けどな、嫁さんの親に不幸があったときは、絶対に行かなあかん」。
どういう気持ちで会長がそう考えるようになったのか。いまとなっては知ることはできないが、自分に厳しく人を思いやるやさしさの一面ではないだろうか。大江にしろ、松井にしろ、会長のことを「父親であり、兄のような人」だったと振り返るのも、こうした人間としてのつきあいを50年も続けてきたからだろう。また、会長自身も自分の会社を興したとき、そうした「家族のような集団」をつくりたかったのだろう。(続)