<インタビュー> 社員が語る
アズワーク製作所(旧・昭和運搬機)の創設社員である大江・松井は、故・吉田会長と50年ものつきあいで苦楽を共にしてきた。ふたりとも会長に仕事を教わり、会長を「親父であり兄のような存在だった」という。吉田会長の若い頃の印象やプライベートの素顔、人生訓…そんな会長の仕事場では見せることのなかった人間像をふたりに語ってもらった。そのありし日の人情味あふれる思い出を、追悼談として数回にわたって紹介する。
吉田隆三会長との思い出(4)
町工場の社長の気持ちがわかるか?
アズワーク製作所が昭和運搬機として創業したのが、昭和38年である。やがて50年ほどの歴史を刻むことになるのだが、その道程のなかには数々の苦しい頃もあった。
いちばん苦しかったとき、まだ昭和運搬機の頃のことである。こんなことがあった。
世の中が不景気のどん底にあって、昭和運搬機も得意先から受注減産を余儀なくされた。その得意先の営業マンが昭和運搬機を訪れ、減産の理由を説明した。ひと通り話が済んで、その営業マンが会社に帰るとき、会長にこんなひと言を発した。
「きょうはこれで帰りますが、明日か明後日、うちの社長と会います。そのときに、何か伝えることがありますか」
すると会長はそれまで堪えていたものが堰を切ったように話し出した。
「あんたらには町工場の社長の気持ちなんてわからんやろ。お宅は簡単に減産というが、私らには死活問題です。これだけの人間を辞めさせなあかん社長の気持ちがどんなものか、わかりますか」
得意先もしたくて減産をお願いしにきたわけではない。そんなことは会長は百も承知である。しかし、減産の話を持ってきた営業マンに対して、どうしてもいわずにはおれなかったのだろう。会長は涙を流しながらそう語った。大江が後にも先にも初めて見た、会長の涙であった。
大江と松井にはほんまに迷惑をかけた
涙といえば、松井も滋賀工場で会長の涙を見たことがあるという。
松井は堺工場の建て直しに8年勤務し、その後、滋賀工場の建て直しに赴任している。どちらも会長に懇願されての赴任である。そんな無理を松井に頼んだという思いもあったのだろう…。
ある日、松井が滋賀工場の従業員たちと焼肉で親睦会を開いていたときのことだ。その現場へふらりと会長が現れた。会長もみんなに混じって焼肉とビールで盛り上がった。
その後、会長が事務所の長椅子で眠り込んでしまった。松井はそのまま会長をほっておくことができず、会長に付き添って事務所の椅子にすわりうとうととしていた。
午前2時頃だったか。会長が目を覚ました。
「お、すまん、すまん。眠りこんでしまったんやなあ」
そういって起き上がると、松井に
「まっちゃん、ほんとすまんなあ。ほんまに大江と松井にはほんまに世話ばかりかけて申し訳ないと思ってるんや」
そういうと、ホロホロと泣き始めたのだという。慌てたのは松井である。急に会長が泣き始めたものだから、何をどうすればいいのかわからず、呆然とするばかりであったという。
恐らく、何年も単身赴任を続けさせている松井への気持ちと、その松井に深夜までつきあわせてしまったことで、急に申し訳なさと物寂しさがこみあげてきたのだろう。
このときの会長の涙ほど意外なものはなかった。と同時に、予期せぬ展開に松井自身どうしていいかわからず、困ることしきりであつたという。(続)