<インタビュー> 取引先が語る
大二商事 岡村幸祐さん -1
経営者には社員や家族に見せる顔とは、また違った顔がある。取引先とのつきあいのなかで見せる顔である。「物静かな会長だったが、私とは気が合ったのか、けっこうよくしゃべってくれはったほうとちがいますか」。そう語るのは、40年来の取引関係のなかで、仕事でプライベートでよく飲んだり、ゴルフに行ったりしたという大二商事の岡村幸祐さんだ。その岡村さん(以下敬称略)に、吉田会長のプライベートな時間と顔を語っていただいた。
吉田会長との思い出 Vol.1
取引先、というよりも友人として
岡村と吉田会長のつきあいは、40年以上になる。昭和40年頃、アズワーク製作所が昭和運搬機株式会社として産声をあげて間もない頃からのつきあいだ。岡村は工作機械を販売する営業をしており、アズワーク製作所と仕事関係にあった神田工業株式会社の神田社長の紹介で吉田会長と知り合った。
吉田会長が昭和9年生まれ、岡村が昭和7年生まれで、年齢が近かったこともあり、ふたりはすぐに意気投合した。ふたりとも無類のお酒好きだったことも、ふたりの仲を深める要因でもあった。仕事のうえだけでなく、プライベートでもよく誘いあって、飲みに出かけたり、ゴルフもよく行った。
「売り込みにきているのに、友達づきあいさせていただきました。気が合ったというより合わしていただいたようなものです」
現在、アズワーク製作所の工作機械類はほぼ岡村が納入したものばかりである。他からもアズワーク製作所には機械の売り込みは多い。そのなかで、あえて岡村から機械を買っていた。ときには岡村も知らなかった機械の情報を聞き込んできて、千葉のメーカーまで一緒に視察に行こうと誘われることもあった。
「岡村はんやったら、まけてくれはるわ」
そんな冗談も、岡村相手によく言っていたという。取引関係という以上に友達としての信頼と気やすさが、吉田会長のなかにあったのだろう。
三月会の初代会長としてのあいさつ
吉田会長は本来、物静かで口数も少ない。岡村とは気があってよく話をしたほうだというが、それでも岡村が会長にあいさつにうかがい、膝を突き合わせていても、岡村が話しかけなければ5分でも10分でも沈黙が続いたことがあった。メーカーの人間とならなおさらで、機械に関する必要なこと以外、自ら話題を取り繕うなどということもなかったと岡村はいう。
だからといって、吉田会長がまったく話すのが苦手とか、口下手ということではない。
昭和44年、45年頃のことである。岡村は取引先の社長連中を集めて、「三月会」を結成しことがあった。三月会とは岡村が音頭をとって立ち上げた、取引会社との親睦を深める会である。毎月会費を集め、年に一度、メーカーの工場を視察旅行し、その帰りに近所の温泉で飲み会を開催したりする。足が出た分に関しては、岡村が負担し、20年近く続けただろうか。
岡村はその初代会長役を吉田会長にお願いしたのである。吉田会長も、岡村からの頼みとあって快く引き受けた。その第一回目の視察旅行のことを、岡村は懐かしそうに振り返る。どこだったか記憶は薄れてしまったが、メーカーの工場を視察したあと、温泉で宴会となった。当然、初代会長として冒頭にあいさつしなければならない。
ふだん無口な吉田会長のことである。大役をお願いしたものの、岡村は吉田会長がどのようなあいさつをされるのか。やや心配ではあったが、あいさつを始めた吉田会長に、それこそ岡村の杞憂であったことを思い知らされた。どんな話をどういうふうに話されたかまでは覚えていないが、とにかく吉田会長のあいさつはみごとだったという。そのときの強烈な印象が、いまでも岡村の胸にしっかり残っている。(続く)