<インタビュー> 社員が語る

oe-matsu01.jpgアズワーク製作所(旧・昭和運搬機)の創設社員である大江・松井は、故・吉田会長と50年ものつきあいで苦楽を共にしてきた。ふたりとも会長に仕事を教わり、会長を「親父であり兄のような存在だった」という。吉田会長の若い頃の印象やプライベートの素顔、人生訓…そんな会長の仕事場では見せることのなかった人間像をふたりに語ってもらった。そのありし日の人情味あふれる思い出を、追悼談として数回にわたって紹介する。


吉田隆三会長との思い出(3)

恥はかいても自分を恥じるな

吉田会長の人材教育はその人の個性や自分らしさを磨いていくことにあった。
「恥はかいたらええやないか。けど自分を恥じることはない」
ずいぶん以前のことになるが、会長が大江を取締役にしようとしたことがあった。ところが、大江はその申し出を断った。若くして工場長という役職を任され、他に年長の従業員がいたにもかかわらず、それらを束ねて、十二分にその職責を果たしていたにもかかわらず…。
「わしみたいなもんが取締役になったら、会社が恥をかきまっせ」
大江が取締役を辞退した理由である。大江と松井は中学校を卒業して職業訓練校に入り、その後、吉田会長とともに昭和運搬機の創業に参加した。従って、学歴でいえば中卒ということになる。だから、取締役という重責は自分には似つかわしくない、と思ったという。
大江の言葉を聞いて、会長は激怒した。会長は、大江、松井のふたりには何かと目をかけ、技術を指導し、人間的にも信頼を置いてきた。
「そんなことは関係ない」
その剣幕に、逆に大江のほうが驚いたほどである。そのときは、取締役就任の話は途切れてしまったが、その1、2年後のこと。会長は大江に相談することなく、勝手に大江を取締役に就任させてしまった。

学歴のことはいうな!

同じようなエピソードが松井にもある。
会長と大江と、機械メーカーの営業マンとで大井競馬場跡に建設された機械メーカーへマシンを視察に行った帰りの新幹線でのこと。
会長はその3年ほど前に胃を全摘するという大手術を受けていた。そのせいもあったのだろう、手術後は低血糖に陥ることがよくあり、たびたび「疲れた」というのが口癖になっていた。そのときも長旅の疲れで会長はじっと車中でシートを倒し、目を閉じて眠っているようにみえた。
会長の横で松井と機械メーカーの営業マンが道中の時間つぶしにと四方山話を重ねる。自然とお互いに興味のあるマシンの話になった。マニュアルをつぶさに読む習慣のある松井は、おそらく当の営業マンよりもメカの知識については詳しかったと思う。ふと、営業マンが松井にこんなことをたずねた。
「松井さんはどこの学校を出たんですか」
「おれ? おれは大学なんか出てへんでぇ」
その松井の物言いを聞いて、それまで眠っているとばかり思っていた会長が突然起き上がって松井をにらみつけた。
「おまえ、ちょっと来い!」
そういうと、胸倉をつかまんばかりに血相を変えて車両から連れ出した。そして
「おまえな、わしは大江と松井にはそこらへんの大学を出た奴以上のことを教えたつもりや。恥ずかしいことなんかひとつもない。二度とそんな物言いはするな」
松井の「学校なんか出てへん」という言葉に、会長はよほど腹が据えかねたのだろう。新幹線のなかではそれだけで終わったが、さあ、出張から帰ったあとも会長の剣幕はおさまらなかった。会社に帰ってもなお、松井はまた会長からそのことについてコテンパンに説教されたのである。松井にとってはほろ苦くも、懐かしい会長との思い出になっている。(続)