アズワーク製作所の歴史

発展期 昭和44年〜昭和63年

この頃、昭和運搬機の屋台骨を支えたバッテリー式自走運搬車。
堺工場は当時としては画期的な自動化工場で、生産効率が非常に高かった。

昭和45年8月28日には、生産台数が累計10,000台を突破。

昭和44年、堺工場を開設した。隆三が実父から相続していた土地である。ここをフォークリフトの主要部品であるミッションケースの生産拠点にするためであった。ところが、皮肉にもこの堺工場を新設したあたりから、フォークリフトの受注が減りだしたのである。発注先であるTCMが滋賀県に本格的な生産工場を建設したのだ。
昭和46年頃になると、フォークリフトの生産だけでは経営が苦しくなり始めた。そこで、TCMと交渉し、バッテリー式自走運搬車を受注することになった。やがてこの運搬車の生産がメーンとなり、多いときで月産50台を生産するようになる。
ついで、昭和46年からはTCMの紹介でカスケード社との取引が始まった。カスケード社は、米国オレゴン州ポートランドに本社を置くフォークリフト用アタッチメントの製造会社である。その日本法人であるカスケード・ジャパンLTDから受注が始まり、米国の生産技術を学ぶことにもなった。アタッチメントの溶接構造物、それの機械加工、リングギア、ウォーム減速器、油圧シリンダーの製作と各コンポーネントの組立、アセンブリー、テストとユーザー仕様による一品製作などを請け負うようになった。

昭和48〜50年頃の昭和運搬機本社。TCM及びカスケード社との取引が2本柱となる。

創業10周年記念式典。昭和48年。

カスケード社は、当時ある大手メーカーにアタッチメントの製造を依頼していた。しかし、できあがってくる製品の品質に必ずしも満足していたわけではなかった。よりよいものを供給してくれるメーカーを、以前から探していたようだった。そんな状況を察して動いてくれたのが、当社と取引関係にあったTCMの当時の役員であった。その役員が、当社をカスケード社に紹介。カスケード社も当社の実力を評価してくれた。
それをきっかけに昭和運搬機がアタッチメント製造の仕事を引き継ぎ、カスケード社との取引が始まった。ここにTCMに加えてカスケード社という、昭和運搬機の取引先の2本柱が誕生したのである。
さらに、昭和51年になると、TCMからリアアクスルを受注していた会社が廃業するので、その設備一式をTCMに引き取ってくれないか、という打診があった。TCMはその話を昭和運搬機に持ち込み、設備拡張のために引き取ることにした。
その引取り値が6千万円ほどかかっただろうか。ところが、その設備があまり役に立たないのである。実際にその設備でリアアクスルを生産していたのだから、まったく使えないというわけではない。しかし、いざ使ってみるとムダが多く、生産効率も悪い。これでは、まったく採算がとれないのは当たり前であった。
そこで、生産ラインを独自の工夫で改良し、必要な専用機は自分たちで自作した。作業工程のなかで、「こんなものがあればなあ」という機械は、会長の構想のもとに本田常務(故人)が図面を引き、なんでもつくってしまった。創意工夫を重ねることで、十分採算のとれる生産ラインが実現していった。このあたりは、アズワーク製作所のDNAとして、いまなお受け継がれている「伝統」だといえる。

大型製品を加工することができる6面パレットチェンジャー「東芝BMC80」。
この他、マシニングセンターなどは中小企業の導入例が稀な時代から設備していた。

TCMとカスケード社。この2本柱を得ることで、仕事の受注は安定していった。しかし、資金繰りはいつも苦しく、毎月1千万円ぐらいショートすることも何度かあった。ひとつには、設備の追加や改善、補修に資金を注いできたから、ということもいえよう。ただ、いい仕事をする、という気持ちだけは全社員失うことなく、それが昭和運搬機の原動力となっていた。
昭和58年には堺工場をマシニングセンターによる自動機械工場とした。当時の中小鉄工所で自動機械工場をつくったことは、業界でも評判になった。特に、この頃に導入した8面パレットチェンジャー(MCV800)は、OKKが国産で開発した初期のもの(1号機に独自のオプションをオーダーしたもの)で珍しく、機械をつくったOKKでさえ、カタログ用に設置風景を撮影させてほしいといってきたほどであった。ともあれ、この堺工場で、アタッチメントの加工を始めることになった。夜中も無人のままで機械がフル稼働できるため、生産能力は格段にあがった。
後日、OKKでパレットチェンジャーの講習会があり、その講習を松井が受けたところ、当の講師がそのメカニズムについてわかっておらず、逆に松井のほうがよく知っていた、というエピソードなどもある。
その2年ほど後、さらに6面パレットチェンジャー(BMC80)が導入された。この機械にも他から多くの技術者が見学に訪れた。いまなお名機として活躍する6面パレットチェンジャーを主に操作する田中は、この機械が導入された当時、他の鉄工所から移ってきた。もともと機械好きであった田中は、優れた機械を見抜き機械を大切にする昭和運搬機の姿勢に引かれて移ってきたといってもいいだろう。
こうした新しい機械の導入や生産ラインの工夫・改善は、生産効率を高めただけでなく、ここで働く職人の心意気も高めてきたのである。その相乗効果があったがゆえに、昭和運搬機は設備の改善と職人魂をもった職人の数を増やしてきたのである。

昭和44年(1969)
東名高速道路全通
昭和45年(1970)
大阪万博、よど号ハイジャック事件、日立製作所LSI開発
昭和47年(1972)
田中角栄「日本列島改造論」で地価高騰
昭和48年(1973)
第一次オイルショック
昭和49年(1974)
巨人軍長嶋茂雄引退、佐藤栄作ノーベル平和賞受賞
昭和52年(1977)
王貞治ホームラン世界一達成、日本の平均寿命が世界一に
昭和61年(1986)
ハレー彗星が76年ぶりに大接近、チェルノブイリ原発事故発生
昭和62年(1987)
NTT株式上場、アサヒビール「スパードライ」発売
昭和63年(1988)
リクルート事件発覚、宮崎駿監督アニメ「となりのトトロ」