アズワーク製作所のDNA。
アズワーク製作所は現会長である吉田隆三(昭和9年2月22日生)によって創業された。隆三の生家は紡績機械のメーカーを営んでいて、いわばここが、アズワーク製作所の原点といえる。吉田鉄工所と称し、50年続いたそのメーカーでは紡毛糸を紡ぐため原毛をほぐし、または織布の端材を綿に戻すガーネットマシンという機械を製作していた。すでになくなってしまってはいるが、ピーク時には150人もの工員を抱えるほどでの活況を見せていた。YOSHIDA IRON WORKSというマシンは、いまも世界のどこかで稼動しているはずである。
そんな環境で育ったがゆえに、隆三はここで機械の製造過程のことをすべて学ぶことができた。設計、資材調達、火造り(刃物づくり)、ヤスリ掛け、ハンマー振り、機械加工、摺り合わせ、組立、試運転等々の機械づくりの一切である。吉田鉄工所とアズワーク製作所は、製作するものや経営に対する考え方こそ違ったが、そのノウハウや匠気質などは創業者によってアズワークコンセプトとして構築され、さらには一人ひとりの職人スピリットのなかにいまなお色濃く受け継がれている。
5人で始めた昭和運搬機。
アズワーク製作所の前身である昭和運搬機株式会社は、昭和38年8月、隆三をはじめ、吉田鉄工所で働いていた本田、大江、藤本、それに他社から参画した松井の5人で設立された。吉田鉄工所で取引のあった東洋運搬機製造株式会社(現TCM)の仕事を引き取る予定であった。主にフォークリフト用アタッチメントの製造および車体への装着などである。資本金500万円でのスタートである。そして、TCMからは事務方として、藤岡、加藤のふたりが加わった。
当時、フォークリフトはまだまだ高嶺の花であった。トラックを買うより、フォークリフトのほうが高いという時代であった。それでも、仕事はコンスタントに増えていった。フォークリフトは米軍基地などで荷物配送作業に使われる程度であったが、次第にその便利さ、機動力が知られるようになり、市場のニーズも増えていった。
設計図の「逃げ」をつくる。
創業と同時に、受注はどんどん増えていった。その理由をあげるとするなら、昭和運搬機の職人気質というか、匠の腕の確かさではないだろうか。当時の設計図面は、非常にアバウトなものだった。設計図通りに仕上げたからといって、必ずしも製品が完成するというものではない。その設計図のポイントを読み取り、職人の勘でどこかに「逃げ」をつくってやらなければならないのである。これを「現物あわせ」といって、職人としての腕が設計図をフォローしていくのである。大江、松井のそうした腕のよさが買われ、昭和運搬機は順調なスタートを切ったのである。