建屋を拡張し、生産ラインを工夫。
昭和41年になると、昭和運搬機はフォークリフトトラックの組立を行なうようになる。フォークリフトの需要が増大し、1t、1.35tのフォークリフトトラックの製造を当社で請け負うことになった。そのため工場の建屋を延長し、生産ラインを増設した。しかし、ただラインを増設しただけでは、1を2にするだけでしかなかった。隆三のアイデアで2本のベルトコンベアを利用して、より効率の高い生産ラインをつくりあげた。それは1本のラインを本体の組立て専用とし、もう1本をその組立てに必要な部品を供給するサブラインとしたのである。そうすることで、組立工は必要な部品を順番に取るだけでよくなる。作業に集中できるため、高効率化だけでなく製品のクオリティも高める結果となった。
その後も、隆三は生産の効率化をはかるべく生産ラインの工夫をさまざまに行なった。仕事を受注するだけでなく、受注した仕事をより効率よく、省コストで行なっていく。そのためのシステムを、一から工夫して整備していったのである。やがてこの基本ポリシーが昭和運搬機の発展の機動力になった。そしてこの基本ポリシーこそが、鉄工所という現場を知り尽くしているからこそ、発揮できたアイデアであり、ノウハウだったといえるだろう。
さらに、大江、松井らも職人として成熟度を増してきていた。レギュラーワーク以外に、さまざまなクライアントから一品物の製作を依頼されるようになってきた。なかには、設計図もなくアイデアだけで発注されたマシンをつくったこともあった。(「こんなもんつくったでえ」コーナー参照)
3C時代に先駆けて、寮にクーラーを設置。
昭和41年頃、世間では3C時代といわれ、カー、カラーテレビ、クーラーは時代の先端商品としてもてはやされた。これに先駆け昭和40年、クーラーを昭和運搬機では寮に設置している。クーラーは、一般家庭でもなかなか手の届きにくい憧れのものだった。
しかし、昭和運搬機は厳しい作業環境にいる職人の健康を気づかい、導入した。当時の中小の鉄工所で、寮にクーラーを設置しているところなど、ほとんどなかった。福利厚生に対しての気遣い、というよりは新しい機械に対する意識の高さがこんなところでもうかがい知れる。寮の職人のなかには、真夏に部屋をクーラーでがんがんに冷やし、ふとんを被って寝ていた、という不届きもの(?)もいたそうだが、その新しい機械は彼らの疲れを癒してくれたに違いない。
TCMからの信頼
社業の進展とともに、TCMからの信頼も大きなものとなっていった。昭和42年、昭和運搬機は資本金を1000万円に増資しているが、この増資もTCMが今後、事業を協力してやっていこうということからの増資であった。
しかし、そのいっぽうで実家の吉田鉄工所が繊維不況の煽りを受けて不渡りを出した。隆三の実父は昭和38年にすでに他界していた。家督は譲っているとはいえ、実家の難儀を黙って見過ごすことはできなかった。その頃には昭和運搬機自体が銀行からの信用が厚く、銀行から1億円の融資を受けることができた。その資金をもとに、吉田鉄工所の資産を買い取り、筆頭債権者として債権の回収に走り回った。債権者に1割の配当を渡し、従業員全員には1ヵ月分の給料を支払った。その後、吉田鉄工所の債権を切り売りすることで、なんとか借財を完済することができた。