<インタビュー> 知人が語る-2
行きつけのお店のママが語る———モンペリエ 藤井孝子さん(2)
お酒が好きだった吉田会長は、社員を誘ったり、取引先の友人を誘って飲みに行くことが多かった。それでも、ときには自分だけの時間を過ごしたかったのかもしれない。月に1、2回、仕事の帰りにふらりと立ち寄り、カウンターに座って顔なじみの客と他愛ない話を肴に静かに飲んで帰る。そんな隠れ家のような店が、カフェ・ビストロ『モンペリエ』だ。オーナーママの藤井孝子さんは、会長とは30数年以上のつきあいになる。会長が亡くなられる数日前もこの『モンペリエ』に顔を出し、ふだんとまったく変わらぬ様子だった。「お盆休みがあけたらまた来るわ」。そういって帰っていったのが、最期になったという。
Vol.2
若いひとへの気づかい。
会長がこの店で心おきなく素の自分を出していた証拠に、藤井さんのこんな言葉がある。
「言いたいことをおっしゃってました。悪い意味じゃなくて、毒舌というんですか。だからよくケンカして『もう二度と来んとって』って返したことも何度かありました。もちろん本気じゃないですよ」
藤井さんが懐かしそうに会長を振り返る。気を許せる店だからこそ、会長も冗談まじりで軽口を叩くこともできたのだろう。
「若いひとともお話するのもお好きでした。アルバイトで入っている女の子によく差し入れなんかを持ってきてくださってね」
もとより会長は出張に行くと、自分や家族だけでは食べられないほどのお土産を買って帰ってきた。それを知り合いに配って、そのひとのよろこぶ顔を見るのが好きだった。そんな面倒見のよさは、この店でも垣間見られた。
「老舗のみたらし団子とか、なかなか口に入らない高級なお寿司とか。女の子たちは田舎から出てきて頑張ってる子たちばかりなんで、応援してやろうという気持ちがあったんですね。だから女の子たちはみんな吉田さんのファンでしたよ」
店への気配りも忘れなかった。
「店のチーフが気をきかせて何かおつくりしましょうか、と吉田さんに聞くと『うん、頼むわ』といって料理をオーダーされるんです。でも、ほとんど自分では箸をつけられない。アルバイトの女の子に、『食べろ、食べろ』とすすめるんですよ」
胃を切除していたこともあって、会長は飲むばかりであまり食べない。そのかわりというか、出された料理を店の女の子たちにすすめ、自分はそれをうれしそうに眺めながらゆっくりビールの小瓶を飲むのである。
お気に入りのサーモンピンクのブレザー。
「吉田さんはとにかくおしゃれな方でした。あれは何年か前になりますが、北野中学の同級生の方々と花屋敷だったか、初めてゴルフをご一緒させていただいたことがあるんです。そのときゴルフ場に来られた吉田さんのいでたちが、チェックの帽子にすてきなゴルフシャツを着てこられて。ふだんお店に来られるときはスーツ姿でしょう。初めてカジュアルな服装を拝見したんですが、うわあ、おしゃれな方だなって思ったことが印象に残っています」
会長が最後に『モンペリエ』を訪れたとき、こんなことがあった
ふだんはスーツ姿の会長が、その日はサーモン・ピンクのブレザーを着て店に入ってきた。いつもと同じようにカウンターに座り、静かにお酒を飲んでいた。すると、そのとき隣に座ったお客が、この店で知り合った方で、テイジンに勤めているひとだった。そのひとが、会長の色鮮やかなブレザーを見て
「いいブレザーですね」
とほめた。会長が、「わかりますか」というと
「もちろん。僕は専門家ですよ」
と答えた。そのとき、会長はほんとうにうれしそうな顔をしていたそうだ。
それもそのはずである。そのサーモン・ピンクのブレザーは、東京の「銀座メンズウェアー」で特別に誂えてもらったもので、会長のお気に入りの1着だった。会長は40年以上もこの仕立て屋を贔屓にしていた。いまはもう鬼籍に入られた作曲家の團伊玖磨氏も愛用されていたという銀座百店会に名を連ねる名店である。会長にとっては、単にブレザーを褒められたというだけでなく、この名店を選んできたという自負を認められたことが、それもプロから認められたことがうれしかったのだろう。
8月の初め頃のことだった。お盆に差し掛かろうかという頃のことで
「うちの会社もお盆で1週間ほど休みに入る。盆があけたらまた来るわ」
そう会長はいい残して店を出た。それが藤井さんにとって、会長とかわした最期の言葉となった。
会長がお気に入りだったサーモン・ピンクのブレザーは、死装束となってお棺に一緒に納められた。(了)
カフェ・ビストロ「モンペリエ」
658-0072 神戸市東灘区岡本1-3-31
サンオカモトビルB1
TEL. 078-452-2940
JR神戸線「摂津本山」駅北口すぐ